ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない RSSフィード

死体 性病は偽装している。まるで生きているかのように。
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2007-06-13

「場」トーと元「個」 21:34 「場」トーと元「個」 - ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない を含むブックマーク

このエントリはブログペットの ”シロマサ” が書いてたらどうする。


「場」は観測行為に依って現れる、とするのが私の立場である。ふたつの「個」、AとBの間には、それぞれにとっての勾配がある。それが重なっているとは、私にはどうも思えない。「個」がふたりいれば、それぞれ別の関係性があるのではないか。

時に関係性は閉鎖系となり、関係性の内部と外部を有するかもしれない。そのような閉鎖系を信頼関係と言ってもいいのかもしれない。


しかし、AからBへの関係性が、直接Bに届いていると考えるには、私たちは言葉足りてないのではないだろうか。

AからBへの感情を記すことは、AからBへの関係性とイコールではない。

そして、BはAの関係性のその先に、本当に存在しているのか?と疑っている。


言葉と心はフィクションだが、言葉によってようやく現れる心があるだろう。いや、むしろそこにしか、心は存在しない。

それは関係性のためのフィクション。言葉で偽って偽って偽り続けることでのみ、コミュニケーションは成立する。

この空間を、コミュニケーティッド空間、と私は呼んでいる。


しかし、AがBに見た「個」は、観測者CからはAと同様には見えていない。

同一平面上にないCが、AとBの関係性を想像する。

そのとき見える閉鎖系が、「場」ではないだろうか。


「場」に「個」はいない。元「個」であった残像が想像されている。

しかし、「個」は自らの残像をコントロールし、虚像を築こうとする。Cと、あるいはまだ見ぬD~Zたちと関係しようとするならば。

その虚像の範囲こそ、偽装人格なのだ。


だからまあ、言葉がもっと溢れろ。

と私は思っているし、その言葉が傷つけるものだとしたら、何を傷つけているのか?を考えている。心?面子?それは、フィクションだったはずだけど。

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